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谷川俊太郎さんと私



谷川俊太郎さんと言えば、教科書に載っていた「生きる」という詩が、そのときの私を少し、しかし長く長く支えてくれた。

「疾風怒濤の時代」と言われる思春期の私は、思春期を過ぎても、自分の存在価値はなく、望まれて生まれてきたと思えず(親がそんなことを人に話したり、子どもがいなければと私に話したりしたため、と自分では記憶をしている)、すさんでいたしでこぼこでとげとげで、でも死ぬこともできず、周りとも社会ともうまくいかず閉鎖的に自分のエネルギーを持て余していた。


そんな中の「生きる」という詩はそっと、私は生きていいんだ、と思わせてくれた。

そこには親も兄弟も友達も学校や社会もなく、ただ「生きている自分」だけの前にぽろりと言葉が並べられ、何者でもない私は「生きていていいんだ」とほっとした。



それからもうちょっと大人になって、「母の恋文」という谷川さんの両親の書簡の本を読んだ。

ピュアな「生きる」感じではなく、生々しい男女の純粋な部分とどろどろした部分とが詰まっていた。


もっと谷川さんの作品を読めばそういったものもあるのだとわかっていたのだろうが、読まなかったので、私はすごい衝撃を受け、そして父ではなく「母の恋文」とタイトルをつけたところになんだかにやにやしてしまった。


これを読んだときには、やはり自分の生きる価値は見出せなかったけど、心身共に恋愛への関心は高く、何度も読んだ。



そのあとは、ぽちりぽちりと対談を読むくらいだった。SNSを始められたが、私がSNSとなかなかうまく付き合えず、谷川さんとは疎遠になってしまった。



谷川さんの訃報を知ったのは、旅先のホテルで見ていた朝のテレビでだった。

そうか…、と思った。


このあと、「ハニワと土偶の近代」(東京国立近代美術館)に行ったら、谷川さんの「埴輪」という作品も紹介されていた。

前々日にたくさん見たハニワのことを思い浮かべながら、「ハニワってすげぇな。谷川さんにも影響を与えているのか」とのんきに思ってしまった。



谷川さんの作品との感動秘話なんてないけれど、難しいことばを使わず、押し付けがましくもなく、でも若い頃のことばには刃が仕込まれていることもあって、なにかにつけ谷川さんのことばを目にすることはあったなぁ。

というのが思い出だ。


寂しいとか悲しいとかそういうものは今のところなくて「そうかぁ」と淡々と受け止めている感じだ。











「ハニワと土偶の近代」ではあまり写真を撮っていなかったので、代わりに谷川さんの詩にちなんで「はにわ展」(東京国立博物館)で撮った埴輪写真を添付する。